Archive for 2月, 2011


初實剣理方一流・甲冑抜刀術、流祖は、今枝佐仲藤原良台といい竹栄軒一翁と号した。正保三年、伯著由倉吉に生まれ、父、今枝佐仲良堅から家伝の今枝流剣術を学び、江戸に出て、伯父、今枝四郎左衛門良政について修行し大成した。初め摂津高槻永井日向守に仕えたが、後に浪人となり、再び武者修行で諸国を遊歴し、今枝家伝の術のほかに、柳生流、起倒流、柏原流などを学んだという。江戸で武術道場を張り、江戸三浪人の一人という。正徳四年六十人歳で死去、法名は明細院殿裁剣一切大居士。二代今枝良邑、三代良熊、四代良真、五代良尚、六代良全、七代良益、八代津山藩士本郷真富、九代松尾囲助、十代本郷真典、十一代松尾囲八、十二代松尾慎六、十三代井汲唯一、十四代今泉商人、卜五代吉田武四郎、十六代大山瀧水、十七代大山十三郎は高菊藤田金山に同流の奥技を伝授、印可を授けられた。神崎勝は平成元年二月、師藤田金一より免許皆伝を印可され、後輩を指導し現在に室る。○特徴・・当流は、今枝流剣術の太刀抜刀を基本とする技が多く伝わっており、特に斬り合いの後、敵を倒して「止」を刺すこと。血振納刀の際、親指と人 差し指で刀を挟み血糊を拭いて納刀するなど、古武士の厳しい武術である。

竹生島流棒術の流祖は難波平治光閑という人で、琵琶湖の竹生島弁財天を信心し長刀一流を夢想奉得した。今から八百余年前(寿永三年頃)の源平合戦に出て、その長刀でよく働きを極めたが、戦いの最中に長刀の込本から折れ、柄ばかりになりながらも、その残った柄を長刀の手で使い大勢を討ち取ったという。これから棒を編み出した。これはひとえに弁財天の冥恩であるとして、竹生島流棒術と名付けられた。棒の前身である長刀は難波流といい、流粗雑波平治光閑は摂津の人で、二代宗家も摂津、三代目からは出羽庄内(山形県)に伝わり、現在の宗家に継承されている。なお、十七代の時から長崎県に移転している。
○特徴・・八百余年の古い形そのままで敏速と手数の少ない極致の技で急所をつき、敵を倒さなければならない。そのためには心と気合と技とが冴え、合体して棒を真剣以上に強いものに到達できるよう修練せねばならない。そして、一本一本の極致を得て臨機応変、相手の出方に対処できる修業を要する。

竹内流柔術腰廻小具足は、天文元年(一五三二)、作州塀和一ノ瀬城主竹内中務大輔源久盛によって創始された。竹内系書古語伝(竹内家蔵) には、流儀の始まりを荘厳化する逸話が延々と語られているが、この時に編み出された「神伝捕手五ケ条」と「武者溺」は、秘伝として現在に伝えられている。 久盛の創始した流儀は、父・子・孫の三代にわたって体系化された。二代目久勝(久盛の次男)は二十歳で「必勝五ケ条」 の技を会得し、二十三歳で諸国武者修行に出立し、各地での真剣勝負を「八ケ条之事」に集大成した。そして、三代日久吉(久勝の長男)が諸国武者修行によって兵法自在の奥義を極め、腰廻小具足をはじめとする流儀を完成させるに至った。 なお、八代目久愛の遺志により、一人っ子藤十郎(久種)が分家して相伝家を設け、流儀の血脈が絶えるのを防ぐ措置が講じられた。そして、創流以来四百八十年を迎える今も、一子相伝により流儀の技と心が連綿と継承されている。
○竹内流は戦国時代の組 討、捕手腰廻小具足を中心にした総合武術であり、「柔術の源流」と呼ばれている。また、棒杖術は「作州で棒を振るな」と名声が高い。流儀で使う小刀は、流祖久盛の神伝捕手の伝にちなみ、一尺二寸の脇差・鎧通∴前差を常用するが、その奥義は袋竹刀を使う稽古の積み重ねに隠されている。羽手(憲法体術)は、殺穴・急所への当て身を第一とし、これに続いて投げ技や留め技を展開する。捕縄の縄は、二代目久勝が近衛関白から賜つた冠の色にちなんで紫縄を使う。

根岸流手裏剣術は江戸末期、上州小天狗といわれた剣術の名人、安中藩荒木流剣術四代目師範掛岸松齢が、水戸藩北辰一刀流剣術師範海保帆平より願立流手真剣術(流祖松林煽也斎) の伝を受け、これに新工夫を加えたため、以後根岸流と称せられるようになった。根岸流の源流となった願]け流剣術(手真剣術を含む) は、仙台藩をはじめ東北諸藩に伝わったが、仙台藩は代々上遠野家に伝承され、明和・安永の項 (一七六四ー一七八○年) に上遠野伊豆広秀という、手真剣術の名人を出した。上遠野伊豆の手真剣話については、只野綾女が文化十四年(一人一七年)に書いた一「奥州渡奈志」に載っているが、この手真剣術が仙台藩主伊達慶邦侯夫人孝子およびその父水戸烈公の手を経て海保帆平に伝わった。このときまでの願立流の手裏剣は頭髪の左右に四本ずつ差せるほビ細く小形軽量のものであったが、根岸流はそれを太く重く改良したものである。
○特徴 手真剣術の打法には直打法、反転打法および回転打法の三種がある。直打法は手真剣の鉾先を前方に向け、回転させずに打つものであり、反転打 法は鉾先を手前にし、百八十度反転させて打つ技法である。また、回転打法は車剣形の手真剣を打つ技法である。根岸流は直打法である。

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心形刀流は今より三百余年前、伊庭是水軒秀明が開創した流派である。八代伊庭軍兵衛秀業は江戸下谷に道場を開き、北辰一刀流千葉周作、神道無念流斎藤弥九郎、鏡新明智流桃井春蔵と共に江戸四大道場と称せられた。家元九代伊庭軍兵衛秀俊が幕府講武所の師範に、また十代伊庭想太郎が同教授方に出仕したので、全国に心形刀流を採用した藩は数多い。亀山藩士山崎雪柳軒は八代秀業に師事し免許皆伝の後、完治元年三月に亀山に帰り亀山藩の流儀とし亀山演武場を建設、門下を指導した。しかし廃落後、各地いずれも廃絶したが亀山においてのみ雪柳軒の継続により今日まで伝承され、一一→重県ならびに亀山市の無形文化財に指定されている。なお、幕末の道場の面影を伝えていた亀山演武場は昭和六十年一月、惜しくも焼失したが、六十三年に復元落成した。
○特徴・・・心形刀流においては心の修業を第一義とし、技の練磨を第二義とする。即ち技は形であり、心によって使うものである。心正しければ技正しく、心の修業足らざれば技乱れる、そして、この技が刀の上に具現されるもので、流名に示す如く心形刀流となる。常に質実剛健で、伊庭の道場は荒稽古で有名であった

関口新心流・・・流祖関口弥六右衛門民心は慶長三年(一五九八)、今川義元の一族関口外記氏幸の子として生まれる。民心は幼少より武芸、組討の術に秀で、今川氏滅亡後、諸国を武者修行、独自の研究により捕手、組討技術を解明。「柔らかな力の使い方」を原理に物に応じて逆らわない心と体のあり方を説き、柔による技術を体系化、武芸向上は日々新たな心により生まれるとして開口新心流と称えた。民心は晩年柔心と号する。柔心には三男(民業、氏英、氏暁)があり、共に父に劣らず秀技で、その中でも三代氏英は「柔聖」とまでいわれ、その子孫は代々紀州藩「御流儀指南」として徳川時代の三大流派の一派となった。八代氏敬は紀州藩大御番に出仕するとともに、『柔口伝心持』などの伝書を著し、当流の理合探究に努めた。十代氏胤は長州征伐に参加するなど幕末維新の激動期を生き抜き、波乱の中、当流を守り伝えた。のち、大日本武徳会にも参加し、明治三十九年(一九〇六)には大H本武徳会柔術形選定委員に任命された(大日本武徳会範士)。十一代万平は和歌山に関口新心流道場「親武館」を開設し、多数の子弟を養成した。十二代芳太郎、十三代芳夫が道統を受け継ぎ、現在に至る。
○特徴・・関口新心流は柔術・居合術・剣術の三つを根幹とし、特に「柔らかな力の使い方」を原理に着目して、これを組討技術に生かし、自ら「柔」と称している流派である。
  柔とは、敵の力をわれにして
   ふりし柳の心なりけり
 故に柔術一本目楊柳を当流の本体とする。
各種の武器で戦っても最後は組討となるので、武士は組討を重視すべきであるとし、組討における力の用法は「楊柳」が示す「柔の理」が最もよいとする。

示現流兵法は、東郷藤兵衛肥前守重位(ちゅうい)を流祖とする薩摩独特の兵法で、鹿児島県の精神文化に今日においても強い影響を与えている。 流祖重位は、初め当時藩内で行われていた待捨流を学び、二十数歳でその極意に達した。その後、天正十五年(一五七八)第十六代大守島津義久公に従って上洛した際、天真正自顕流の奥義を極めた京都天寧寺の善吉和尚と選近し、強いて教えを乞い、修業すること半年有余、奥義の相伝を受けた時が二十八歳であった。 天正十七年薩摩に帰った重位は、屋敷内全部の木を打ち枯らすほど心技を練ること三年、待捨流と天真正自顕流の精髄を総合渾和して編み出したのが「示規流兵法」。 垂位四十四歳の時、第十八代大守家久公より、薩摩藩の剣術師範役を命ぜられ、家久公は垂位を師として、示現流の奥義を極められ、また歴代の大守も示現流の奨励に努められた結果、薩摩士風の振興に貢献するところとなった。 さらに第二十七代太守斉輿公は「御流儀示現流」と称するよう命ぜられ、門外不出とされた。 以来四百余年、時世に迎合せず当初そのままの姿で一子相伝され、歴代の古文書(県指定有形文化財東郷家文書)と共に、現代第十二代宗家東郷垂徳に伝承されている。 また、平成七午に示現流の正確な伝承、振興を期するため「財団法人示現流東郷財団」が、十一代宗家重政の遺志を奉じて設立され、十二代宗家垂徳が理事長に就任、示現流の保存、普及に情熱を傾けている。 また、平成九年五月一日に、示現流兵法所並びに史料館が完成、これまで門外不出とされ非公開となっていた歴代古文書などが一般にも公開されるようになった。
○特徴・・・・示現流は「一太刀の打ち」といわれる。一太刀の激しい攻撃がそのまま防禦を兼ね、先を制す。何事を行うにも生死一如の真剣な境地を養うべく、古来生死の境の中でも真剣に行じてきた人たちの「業の集積」「心の集積」として伝承されてきた形を稽古することにより、強靭な肉体と精神の鍛錬に努めるのが目標。演武カタログより転載

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本體楊心流・・・・・当流開祖、高木折右衛門重俊は、寛永十二年に奥州仙台藩白石城主片倉小十郎の家臣である稲飛(稲富)家に生まれ、幼名を右門と称したとされる。彼は無刀流小太刀・鏡智流槍術などを学び、父の戒めの言葉であった「楊木は強く、高木は折れるぞよ」との言葉にちなみ、楊心流高木椚右街門と名乗ったという。祈右衛門は剛カで有名でさまざまな伝説が残るが、平成五年には、旧白石領内で、所右衛門のものと伝えられ、守り続けられてきた墓所を確認し、墓前において奉納演武を行った。 二代を継いだ高木馬之輔童貞は、作州森家の秘蔵の家持で、折右衛門と同じく大力で有名であったが、自らの未熟を悟り、竹内流に人門し、体格やカに頼らない体術を工夫し、本體楊心流高木流と称するようになったとされる。 三代目は烏之輔の子息である高木源之進英重で、播州姫路藩本多家に仕え五百石を受けた。この時に、四代を継いだ大国鬼平重信の開創した九鬼神流棒術が取り入れられ、幕末まで赤穂藩に相伝した。第十七代皆木三郎正教によりさらに研鑽・工夫が加えられ、第十八代井上剛宗俊、さらに第十九代井上恭一宗教に引き継がれた。特徴・・・柔術・棒術・小太刀術の三本柱を中心とする総合武道である。特徴は、おおむね技が簡素で虚飾がなく、直接的・効果的な技術である点にある。徒手でも、あるいは得物を持っても同様の体捌きで敵の攻撃に対応することができ、柔術六法(逆・投・締・当身・捕付・活) により、いわゆる「活殺自在」 の境地を目指すものである。

兵法二天一流の流祖は、宮本武蔵藤原玄信である。幼少より剣に志し、その鍛錬は実に生死を超えたものであった。六十余度の勝負にも一度も敗北を知らなかった。しかるに三十にして己の剣を振り返り、憶念思考し「わが兵法至極にして勝にあらず」と自覚し大いなる世界に立った。そしてなおも深き道理を得んと朝鍛夕錬し、五十にして実相円満の兵法二天一流を創始した。実相円満とはこの世の中そのままを円満に、すなわち六道輪廻のこの世界そのままをありがたく戴く空ずる兵法だというのである。兵法を得道して忽ち巌の如くなりて万物あたらざる所、うごかざる所がその心である。後年におよび悟徹せる万理一空の剣理は、絵画、彫刻に至るまでその極を究め、実に国宝数点を残している。また武蔵の著『五輪書』『独行道』『三十五ケ条』は現今も世界の人びとに愛読され、百世の指針とされている。刀法に太刀勢法、小太刀勢法、二刀勢法などが伝承されている。 
特徴・・・当流においては兵法は心の修行にあると説き、心ができなければならぬ、心がもとだと説いています。また兵法は利方即ち悟りをひらく方便だともいっている。心ができなければ勝負には勝てないというのである。 刀法の特徴は相手の剣を知って剣を見ず、即ち相手の剣がまだ動かない前を打って勝つ機前の太刀である。

水鴎流・正木流鎖鎌術・・・・三間与一左衛門景延によって天正、元和の間に創始された。流狙は天正五年羽前国十二社権現の神宮三間斎宮の子として生まれ、卜傳流剣術と林崎流居合を学び、さらに奥秘を極めようと十二社権現に参篭し修行すること二十年。一夜神夢を蒙り大悟し、大の二十八宿に蒙り居合法形二十八本を定め、これを基として薙刀術、杖術、剣法など諸般の武術の妙を究め、水鴎流と号して諸国を巡り、流儀を広め門人を取り立てた。作州津山で宝山流の浅田九兵衛との試合が天保十四年刊の 『撃剣叢談』 に出ている。後、九世福原新左衛門によって正木流鎖鎌術が併伝された。当流は後、江戸に伝わり幕末の頃、水問半兵衛景次が十三世を継ぐ。維新後、景次は修験者となり、各地を巡り遠州で勝瀬光安に奥義を相伝し、勝瀬北安景正十四世を名乗り、後、勝瀬善光景弘が十五世を継水した。
特徴・・・・当流は居合剣法、杖術、薙刀、小具足、鎖鎌などの総合武術として戦場実戦を立眼とする。稽古は必ず相手をつけ訓練教育を施す。流祖正伝の法形を厳守し、無心、無欲、神人合一の境に至るを極意とする。

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琉球王家秘伝本部御殿手・・・・本部御殿手では、突き・蹴りを主体とした体の修行から始まり、次第に相手を傷つけることなく無抵抗にしてしまう「取手(トウイティ)」と呼ばれる投げ技・関節技の修行へと進む。取手の修行と平行して各種武器術も併せて修行する。武器術では、琉球王族が所持していた刀剣類のほかに、箒、擢(ウエーク)、鳥刺し棒など、日常道具までも武器として幅広く使用する。稽古は合戦の際の多人数を相手に闘うことも想定し、そのため刀などを使う場合も二刀を使用することが基本で、常に歩きながら技を使う。このように剛と柔の技を積み重ね修行を続けて行くことで、奥義である武の舞「舞手」に至る。また秘伝技として「渦巻龍巻の剣」が伝承されている。

渋川一流柔術の流祖 首藤蔵之進満時は、彼の叔父で宇和島藩浪人と伝えられる宮崎儀右衛門満義に連れられて廣島藩安芸郡坂村に居住した。蔵之進は宮崎儀右衛門を師として渋川流および難波一甫流を習得し、さらに武者修行の途上、浅山一伝流をも習得して、三流をもとに「渋川一流柔術」を創始した。
特徴・・・渋川一流柔術の形は徒手に対して徒手や懐剣、三尺棒、刀などの仕掛けに応じる術と、棒術(互棒・小樽・三尺棒・六尺棒)、十手術、分室術、鎖鎌術、居合術などの得物を用いる術から成り立つている。 形は四百ほどあるが、その特徴はすべての形に飾り気がなく、素朴で単純な動きで相手を制するところにある。 形は受の仕掛けの方法によってグループ分けされており、初めに稽古する履形 (受が中段または下段を突いてくるのを制する形)の三十五本の形が全ての形の基本となっている。 それぞれの形のグループの多くには「礼式」があり、そのなかに受を制することなく、押し返すのみの動作がある。これは渋川一流柔術の理念が人と争わないことにあるということを表している。 形の稽古のほかに鍛錬法として棒抜けや枕引きなども伝えられており、柔道の乱取に相当する意地(治)稽古も伝えられている。

卜傳流・・・当流は剣聖塚原伝から数えて十六伝にあたる、越前国の田中武平の弟子中村次太夫が、延宝年間に弘前藩家老職棟万作右衛門家の食客となったことから津軽へもたらされた。
特徴・・・・一つの太刀に生を燃焼しっくし、一気に甲をも打ち割る気迫を込めた捨身の技を精神とする。間、拍子の修練を重視し、体を左右にかわすか、退くかして、相手の攻撃をはずして技を決める形が目立つ。

佐分利流槍術・・・・佐分利猪之助重隆を開祖とする。重隆は初め富田流を学んだ。富田一家の武道は中条流の正系をくむ名流である。その一門の富田牛生は槍術に秀で、富田流槍術の開祖となる。重隆は牛生について学び、その妙旨を悟り、工夫を加え佐分利流を創始し開祖となった。関ケ原の合戦には東軍に属し、勢州津の城を守り槍をもって大いに石田方を悩ました。その後、池田輝政に仕え老臣となり、子弟の育成に努めた。門人多数ある中、岡田 源五左衛門、佐々木左内の両人が最も秀で、これに佐分利の姓を与え、妙旨を伝えた。源五左衛門重賢は師の伝を継ぎ、左内は備中足守木下家槍術師家となり、多くの武勇伝を残した。四代目垂勝より三原藩槍術師家となり隆盛を極めたが、八代目重武のとき明治維新となる。その後、倉橋誠太、吉永俊二、川瀬元一、川瀬一道と引き継がれ、古流の振興に努めている。
特徴・・・当流は、槍は切るもの、刀は突くものを真髄としている。槍の全長は九尺、穂先は両刀両鎬、長さは二尺一寸を基準とする。鍵は穂先より二尺五寸下がったところに付している。また、鍵の位置に腕貰と称する房が付けてあり、長さ一丈一尺、太さ九耗前後である。 鍵は相手の武器、体勢を別して切るを基本とする。また、腕貫の使用は口伝、秘東丁につき略す。腕貫の体用は目録以上でないと使用を許さない。記載は大会パンフレットより一部抜粋

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由来・・ 室町末期、上泉伊勢守信綱は愛洲陰流より「転」(まろばし)を工夫して新陰流を創始した0信綱に師事した柳生石舟斎宗厳は「無刀の位」を開悟して第二世代を継いだ。宗厳五男の宗矩は徳川家康に仕え、将軍秀忠、家光の兵法師範となり剣名を大下に高めた。次いで十兵衛三厳、宗久、、宗在と伝えたが、江戸後期には惜しくも兵法から遠ざかった。一方、宗厳の長男厳勝の子、兵庫助利厳は祖父市舟斎の薫陶を受け、異才が開花し第三世を継承した。元和元年に尾張藩主徳川義直の兵法師となり、太平の時代に即応する「直立つる身」ー自然体-の兵法を確率し、上泉流祖以来の剣の理と刀法に根本的な改革を加え、当流を大成させた。利厳の子、達也厳包も天才的な達人で、「尾張の麒麟児」と称えられた。当流は尾張藩の「御流儀」と尊ばれ、道統は尾張柳生家代々の師範と尾張藩主徳川家の協力によって正しく伝承されて、第二十二世宗家柳生耕一厳信に至つている。
特徴・・・心身ともに「無形の位」を本体とし、千変万化する相手を明らかに観て、その働きにしたがって無理なく転変して勝つ自在の刀法、即ち活人剣である。太刀を全身の働きによりのびのびと遣い、刀身一如、臨機応変、自由活発に働く神妙剣を目指している。流祖以来の剣理と刀法が正しく体系的に完備している・・。大会カタログより抜粋

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日刀保の研究会に昨日行ってきました、、鑑賞刀には粟田口関係の刀が展示、、鑑定刀は1号2号が短刀、3号が難物腰ぞりの時代の上がった刀、、4号がこれまた超難物??。豪快な打刀表に剣巻き流(相州風)、、裏に7文字の漢詩?意味不明?、5号刀は相州伝打刀、、重ね厚くこれまた豪快、中直刃ののタレ刃・・・。まさか4号刀が下原照重とはビックリ、、協会も替わりました。恥ずかしながら、、当局の入札を公開いたします。

追記)1号刀は粟田口吉充 2号刀は来 国俊 3号刀は古宇多国房 4号刀は下原照重 5号刀は和泉守兼重でした。

伯耆流・・伯耆流居合術、始祖片山伯耆守久安は竹内流竹内中務大夫久盛の弟で居合術中興の祖林崎勘助の伯父松庵より一子相伝の秘太刀十八刀を相伝されたと言う。以下略・・。演武押さえ抜き・突き留・四方金切・膝詰・胸の刀・追掛抜・一作足・無詰・切先返シ・四方詰。兵庫県尼崎市。直心影流薙刀術・・・始祖は500年前松本備前守紀元(以下略)。特徴古来薙刀術は戦場の武器として重用され、多くの戦記物語にもその名を残している。略・・当派に伝わるのは小薙刀の技法であり小ぶりの刃を薙ぎ上げて薙ぎ払い、精鋭で迅速な投法を身上としている。略・・。起倒流・・・福野七郎右衛門正勝の福野流から出ている略。特徴・・戦場甲冑技法から高度な投げ技、捨て身技を完成させて起倒流、この流派は柳生宗矩も門弟である茨木専斎俊房が福野七郎右衛門正勝と寛永年間に創始した・・。内容は気を重視する、江戸時代に・・その名をはせた。・・・略・・京都。

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2011年武道館古武道大会は大太鼓の合図と共に全出演者が集合開会宣言のあと表彰式(小野派一刀流剣術第17代宗家 笹森建美師・竹内流柔術腰廻小具足 相伝家13代目 竹内籐十朗師)が行われたあと、、いよいよ開始。弓術開始。この派の活動は小笠原家が使える弓術・弓馬術・礼法の術技について、習得しようとする意欲のある方のみに稽古を行っている。各地に神社などにおいて弓術・弓馬術・礼法の儀式奉納、神事奉仕年間50数カ所において行っている。毎年1度5月に全国の同門が京都に集まり研修会を開催している。弓馬術は将軍家の御留流として継承してきた。今回は歩射の儀式を披露。服装が素晴らしい、、また、キチンと脇差しを差しているのが良い。(サムライなら当然のことなのだが省略している流派がある)!

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昨日は刀関係・武道関係らの友人らと東京は九段の東京武道館にての古武道大会に行ってきました。1月来続いていた寒波もゆるみ出かけるには最適な一日となりました。帰りには靖国神社へもより、、軽く飲食歓談して帰宅、いろいろな流派の演武をみれて今後の居合道修行の参考になりました。多数の写真を撮りましたので順次公開いたします。

昭和47年と言えば、1972年、、、40年かあ・・・。昨日同窓会の準備会が戸田市文化会館で開かれた。やや遅れ気味に入ったらもう既に始まっていました、メーンは住所不明になって居る方の捜索と日程の説明、当日の進行案が提示された。私なんか地元を出てしまっているので行方不明の範囲の人物になっていました。結構聞かれるのは和田はどうなったのですが、、どうも?。ああ、、リスト見たら、、不明で合いたい人もいるな・・・。次回事前会合は4月16日(土)18時30分。同窓会日時2011年5月7日(土)、15時~21時。戸田市文化会館「羽衣の間」会費7000円。事務局3年5組 細田忠良 048-442-7025 株)細田建設 内。斉藤淳先生、持田先生等の名前が挙がっていたご健在なようで何よりです。

埼玉会館大ホールにて実施、2つの講座の案内が来ました。1つは13時30分~、「阪神・淡路大震災と新潟県の2つの地震」平井邦彦新潟造形大学名誉教授。15時~田中 淳東京大学大学院教授「災害から生き延びるために」。新潟地震には通算30日ほどボランティア活動をさせて頂いた関係もあり是非とも行ってみようと思う。たしか平井教授には新潟で1回お会いしているのですが、、。
 

熊谷図書館3階で開催されている名刀展に行ってきました、平日の午前中と言うこともありすいているかと思いきや、、結構鑑賞に来られている方がいました、やはり図書館に併設は集客力がありますね!。やはり広く大衆に訴えるには複合施設が良いでしょう。日本刀の展示室は広く照明も適切で良く見れました。欲を言えば、、ガラスからやや遠いのでもっと近くで見れるように去年の行田で展示した時のような平ケースに何点か展示すると良いと思う、、展示室には刀剣会の会員の方が2名説明?でおられた、来場者にもっと話しかけた方が良いですね、、すきそうだったら会員にならないかどんどん勧めて良いと思います。行田の時はいなかったなあ、、まあ、警備の関係だろう。それから会場で頂いた「さいたまの日本刀」第17号を読んでみました。読者は誰れなのか?よくわかりませんでした。それからレポートの中に会員の減少が記載されていますが、、インターネットを使用しないと会員はあつまりません。今の刀剣愛好家の方のもっとも苦手な項目でしょうが、、、

今回の試斬は巻き藁にプラス生竹を加えて合計50本近くを4名で試斬いたしました。2名の方は竹は初めてとのことで斬った時の感触を堪能された模様、、切れても切った竹が飛んでいってはやはり旨くない、、きったら周辺にポトリと落ちなくては・・・。綺麗に45度、刃筋がきちんと竹にたっている、剣速が早い、、スコンといって切れます。切り損ねない限り刃こぼれ、曲がりなどは発生しない。ろくに鍛えてない偽物現代刀でないかぎり刃のめくれもない。さて刃こぼれですが巻き藁は使用したお古ですから、、ゴミ(小石・ホチキスの針等・・)が畳の目地に入っていて、刀の刃が当たると刃がこぼれる。竹を切って切り損ねると刃がこぼれるのはしかたない、どんな豪刀でもこぼれる特に私のような幕末刀体配の刀は身幅があるので切り損ねると刃先にかかる衝撃が大きく、、また、、堅めに焼いているのが幕末刀なのでさらに刃がこぼれ易い。竹を切る理想的な刀の姿は寛文新刀体配・軍刀体配・末古刀体配など身幅が無くて重ねが厚い刀が良いと思う。