Archive for 3月, 2011


ああ春、試斬!

兼ねてから計画の試斬を、ふじみ野試斬衆を集めて、東武東上線上福岡駅近くの友人のお店の休憩時間に駐車場で生竹を、、ポンポンと切りした。木の棒にちょこんと立てているだけなので、、刃筋をピッチと立てないと、、竹が飛んでしまいます。切りそこねると、、刃がこぼれます。氣を入れて(目つき)切りましょう。切ったあとの流れも重要です。下はアスファルト、、オーバーランすると、、刀が泣きます。

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支援募金について

東北関東大地震で莫大な義援金が集まっておりますが・・新聞記事などの報道によりますと配分方法がまだ決まっていないとのことです。組織が大きくなると即応と言うわけには行かないのは周知のことです。また、義援金も集まって配分する組織の運営資金にて消耗してしまうようです?。その点現地で真面目に真剣に救援しているボランティアの方を支援することは、消耗もなく、、今活動しているわけですから、、今困っている方々を今支援しています。支援金は即活用される分けです。個々に紹介しているリンクのヒューマンシールド神戸は、適切な支援先として私が推薦いたします。もちろん私も1回1万円にて支援しています。

いやー昨日より若干風が少ないがやはり寒いねー、、何時もの道の駅まで一走り、、ガソリンが余り無いので遠くまで散歩できそうもないが、途中ガソリンスタンドを覗きながら、、突然開いて・・突然売り切って閉店のパターンげ定着の傾向があるからので・・・。さて道の駅につくと何時もの朝市はやっていない、、当たり前か・・・。しばらく駐車しているが30分位・・バイクは1台もこない、、何時もは沢山いるのだが、、ああすれ違いでも、、晴天の日曜なのにツーリング気配のバイクは1台もみなかった。休憩後、、自宅へ直行することで走っていたら、、スタンドから出てくる車をちらっと見る。即方向転換して、、、めでたく満タン給油・・やほー、、これで次の日曜日はツーリング行けるかな??。

ブログを見ていると洋上に流された舟の上で聞いた”救助を求める闇夜の叫び”のレポートが印象敵であった。また、貯まった土だしの方々の奮闘も印象敵な出来事、昔一緒に浦柄で泥出しをした仲間であります。

新聞やテレビで知る被災地の出来事は知識として理解できるに過ぎないように思えて成らない。被災地で活動する彼らの目線はマスコミと言われる人たちと違って、、かなり低い。新潟でもそうだったが取材している人たちは、待機中でも目の前にこまっている人がいても知らんぷりしている。そんな人たちに?わかるのだろうか?。現地で活動しているボランティア達のレポートを見ていると何もしなくて良いの?なんて思う。FMラジオくらい集めろ!、、ああ俺のことか?。北海道から救援のカヌーの方ブログ を見ていると・・・。タイヤ何とかしろ!!、ガソリンの携行タンクも!・・

東北大地震の救難活動が滞っている理由は過去の災害と違って広範囲に被害が出ていて人手が足りないことです「猫の手孫の手」、被災者を救難するには人海戦術しかないのであるが今までは東北道の一般車両の通行ができないこともあり一般ボランティアが入りにくい状況になっていた。もうすぐ通行可能になるとのこと一つ難題が解決した。所属団体では安全の確保(タイヤ?)、帰りのガソリンの不安から活動を見合わせている、まあ、その通りではると思うが、、何もしないと決めているようで気に入らない!のである、今できることで宮城RBの仲間に問い合わせてみたところ以下の返信があった。「目的地まで道路は確保されていだろう、スタットレスタイヤはまだ必須、ガソリンは無いので20Lの携行タンクは必須で緊急車両以外給油は難しい、盛岡からのバスで現地入りは可能、事態は日をもって改善の兆候」と言う内容でした。今後とも事態を注視して情報の収集と準備を進めたい。

被災地での仲間の活動をブログを通じて見るにつけ・・・直ぐにでもかけつけて上げたい・・が環境はなかなか許さない。大きな団体への義援金ですましたくない、ほんとうに困っている方に直接届けるのがもとも有効であると思う。その困っている方に直接現地で支援しているボランティアを支援するのが100%活きた支援となろう!。ヒューマンシールド神戸、、、頑張って!。ブログ見ています。

埼玉県の個人登録災害ボランティア(登録団体にも所属)としている自分に知人から東北地震復興支援の依頼がなされましたのでなんとか助けて上げたいと思い声をかけることにした。以下文面

災害ボランティア団体あて依頼
表題の依頼が私の方に書面でありました、個人情報でもありますので、書面はダイレクトにで送りますので、、是非とも協力していただきたいと思います。
概要)
昨日、私の知人であるフリーカメラマンのTさんから実家の岩手の写真館が津波で建物を残して写真器材を流されてしまい困っているとのこと、この未曾有の大災害を地元の記録として残して後生に残したいとのことでした。その機材の運搬とTさんの移動のお手伝い!。
ご家族は無事であるとのことですが、隣の文具店の方は1名生存、、あとは不明。天を見張る津波にお父様は見えたと言っていた・・とのことでした。
お父様より来るな!、、来るなら紛失した機材を揃えてくるようにと言われ、、いま、揃える準備をしているが、、車をもっておらず運搬手段に苦慮しているとのことです。
いま、Tさんには、、岩手でボラセンにニーズ表を出して、作業表なるものの交付があると良い!・・・それから、何時までに、、何時?岩手に入りたいのかスケジュールを立てるようにと伝えてあります。
以上。

何時もの様に彼は被災地を移動していた。私と同じ年の彼は勤務先を辞め、家族を横浜に残して母親の故郷に戻った、あと少しで定年を迎えるのに、、現地では仕事が無い、好きもあって営林所に臨時採用で職を得た。その仕事とをなげうっていま東北大地震の被災者の救援に尽力している!素晴らしい人物です、放射能等にびびっていません。その被災地から自己都合主義の公務員(学校管理者)に対する苦言が掲示されている。人はそれぞれ皆同じではないんだね!リンク 注意)衝撃的な映像がアップされています、気の小さい方は行かぬように!

中越地震でともに活動した黒澤氏のブログにて、1000人単位で避難している方々がいまだに何の援助もなく孤立していると悲鳴を上げている。救難しに行きたいがどうにも成らない(職場・家庭環境等)のでこちらで出来る事を考えていきたい。ブログは。。。雨ニモマケズ風ニモマケズ

今や話題は、車の給油で長蛇の列をなす車と渋滞!当分続くだろう・・ツーリングも当分お預けで調子を確保する為の走行しかないだろう。車は電車が止まる日は車で往復100キロ走行その為の給油は並んでするしかないだろう。とも各、、無駄な走行は御法度、歩くかないね!電車が動いているようであばその時間帯を旨く使って移動ですね、、ともかく夜間の停電用にキャンプ用具をセットした。ガソリンランタンは最悪レギュラーガソリンでも使えるのでその点は便利、操作が難しい(妻では無理)ので私がいる時のみの使用となろう。

車にガソリンを入れにエネオスに行ったらありません、多分この辺一体同じでしょうと言われました。ためしに回って見たら閉鎖になっているスタンドがありました。辛うじて10リッターだけ入れてくれるスタンドがあり取りあえず入れる。諦めて道場へは電車(6駅)と徒歩で15分、、これも稽古の内とおもって、、道場でも同じくないとの話になりました、、大変なことに、、。仕事通勤で車乗る人はどうするんでしょう?。これではツーリングなんて飛んでもないことですね!。。

もうすぐ春爛漫、大変な時期ではありますがいまできることは普段通りの生活をして行きたいと思います。バイクGL1500の出陣にそなえてバッテリーの点検を実施、テスターによると12.5ボルト、比重計ではグリーンからイエロー・・レッドまで各層にバラツキを確認いたしましたので充電することにいたしました。低電圧にて18時間実施、次はオイル交換とタイヤの点検をレットバロンにて実施してもらい来月は出陣となりましょう!。

立身流兵法、流祖立身三京は、足利時代、伊予の国の武将で、幼少より武術に精進し、幾多の勝負に勝ちぬいたが、技法を越えた高度の心法を極めんとして、妻山大明神に祈願して大悟し、勝機を未撃に知る無我の心境に達し、必勝の原理を体得し、立身流を創始した。江戸時代は下総佐倉の堀田藩で、武上教育の中枢として重視され、権威ある宗家統率のもとに、非凡な剣士に厳しく伝承され、伝書十五巻や古文書と共に、正確に今まで伝えられた。幕末頃には半澤成恒・逸見宗助・兼松直簾らの名人が出た。警視流の形には、立身流から剣術に「巻落」、居合に「四方」、柔術は「柄からみ」各一本宛採用された。宗家十九代加藤久は、指導様式を工夫し、至難な技法をわかりやすく分解指導して、会得しやすいように古来の教授法を改善した。加藤久は数抜き3万本を通した。豊前中津の奥平藩に立身流の分派立身新流があって福沢諭吉はこれを学び晩年まで自負したのは有名である。
○特徴・・・居合、剣術を主軸とし、やわら、鎗、棒、半棒、長刀、捕縄、手真剣、さらに弓、物見などの心得、首見参などの作法や集団戦闘法などを含めた総合武術である。形は虚色なく、洗練された技術内容の集約であって、動く禅と称される。向、まるいの秘太刀が居合、剣術、ひいては鎗の基本とされ、心法も含めた奥義とされる。やわらは居組六力条、立合二十三力条、組合(鎧組み討ちを基本)十六箇条が含まれる

無比無敵流杖術、流祖・佐々木哲斎徳久は檜の名手であり、関ケ原の戦いにおいて、九尺の檜を傾い激戦中槍先が折れ、柄をもって奮戦。その後、日本六十余州の大小の神祇と摩利支天尊に祈願し、その霊験により無始無終の悟りを得、無比流兵杖術を開眼し、日本関山無任所として各地を遍歴し、後に六代目、片岡宗景重が水戸藩に仕え、以後この地を中心に伝承。明和、天明の頃から水戸藩の武芸者のみならず、民衆の自衛武術として近郷近在において栄え、さらに秘儀が磨かれ、変化に富んだ武術として発達、無比無敵流杖術として隆盛を極めた。旧平磯村の大内藤
次郎は、旧中根村の十代目安弥八郎忠信に師事し十一代目を継承、多くの門弟を育成した。 その後、宗家十三代、根本卯之吉忠勝から宗家十四代目を継承した根本平三郎唯久は流派の保存と伝承に尽力、昭和四十六年九月二十一日付、那珂湊市無形文化財指定を受けた後に、昭和五十六年に明武館道場を創立。平成六年十一月一日付、ひたちなか市無形文化財指定を受け、現在は宗
家十五代を根本憲一唯之が継承して、子弟育成に鋭意努力し、古武道の保存と振興に努めている。
○特徴・・・1、構えは槍の操法が基本となり、身は半身、足は丁の字、打つと見せて引く、引くと見せて突く、突くと見せてさくる。2,一に眼、二に気合、三に構え。3,伝は以心伝心、千変万化、電光石火の一撃で倒す。

森重流砲術、流粗、森重靭負都由(もりしげゆきえすべよし)は宝暦九年(一七五人)の生。周防の国末武(現・山口県下松市) の人。遠祖は戦国守護大名の雄、大内義弘の弟、大内盛見とする。初め三島流船戦法、天山流砲術を学び、十八歳のとき故国を出て諸国を遊歴し、火衝、砲術を学び、安盛流、中島流、遠国流、禁伝流その他の奥義を究めた。更に橋爪廻新着流武伝法を学び、甲州、越後の兵学数流の要旨を得て船戟要法二十八巻及び火法数巻を著して合武三嶋流軍船学として一流を興した。のち、その砲術部門を森重流砲術と称えられる。時あたかも近海に外国船の出没が伝えられる頃、択捉島がロシア船による暴虐に遭い、その対策に苦慮していた幕府に、「西丸御所院番与力・蝦夷地火術取調御用被仰付」として兵・砲両術を以て召し出され、その門に学ぶ者二千八百余人と言われて、その名は天下に聞こえた。都由の没後、時の若年寄京極周防守はその名声に鑑み、流名を「森重流」とするよう二代都光に命じ、以後、諸国の門下は挙げて森重流と称した。
 伝承開基
 古流砲術は明治以降火砲の近代化により廃れ、一部が祭礼の行事等で僅かに残るのみで消滅同然であったが、(社) 日本ライフル射撃協会元会長の安斉貫は、少年時代からの古銃蒐集に加え、砲術伝書の研究により森重流伝書四十五巻を独習し射法を得たことから、明治大学射撃部に在籍中の昭和九年(一九三四)第九回全国中等学枚射撃大会において、トーマス・メロ・ポルトガル公使の臨席の許、「頬付手法小銃手法要訣七形」を演武した。それより大学射撃部有志と共に競技大会の折などに演武するようになり「伝承開基」と称されるに至った。 大戦後、その射法は日本ライフル射撃協会おいて継承することとなり、協会会員有志はその射法を研究し、昭和五十一年(一九七六)小野尾正治は古式銃射撃競技の第五回前装銃世界選手権大会において、日本製火縄銃を携えて出場し好成績を挙げたことから、協会傘下に「日本前装銃射撃連盟-が希求されたこ以来、同連盟会員有志が、型稽古と実弾による「角場打ち」(標的射撃)を併せて研鑽しながら日本ライフル射撃協会主催の火縄銃協議会、「前装射撃大会」でも活動している。

○特徴 当流は「居放(いはなし)」の業にあるような、森厳な手前による操銃手順を展示するばかりでなく、「繰進之法(くりすすみのほう)」には、横隊で号令(下知) により発砲する西洋式銃陣に似た実戦用の技法もあり、用兵術的特徴も併せ持っている。
 また、日本武道の極意である、一発必中の業を磨くための諭歌に「小筒にて誠の中り学ぶには毎日打ちて夜中素挟めす」と詠まれ、「素挟め(すだめ)」即ち空撃ち稽古が欠かせぬことを伝えるなど、現代のライフル射撃の練習法に通ずるものもある。

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無双直傳英心流居合術の流祖は林崎甚助源重信で永禄年間の人である。亡父の敵を討とうとして、林崎明神に祈願し、居合の妙理を悟り林崎夢想流と称し敵討を果たした。この流派は重信流とも称した。以来幾多の分流を生んだが、中でも第七代長谷川主税助英信は、古伝の業に独創を加え、その術が精妙であったことから、長谷川英信流と呼ばれ、また、無双直傳英信流とも称せられた。延宝二年(一六七五)第九代林六太夫安政が土佐藩に仕え、英信流は土佐へ流布した。以降土佐藩はこれを門外不出の流儀として庇護し、伝承してきた。第十七代大江正路子敬が武道の衰退を憂慮し全国に当流を流布、教伝に努力した。土佐藩主の流れを汲む第十人代山内豊健は 「居合祥説」 を発刊、第十九代河野兼光は東京都豊島区に明武館を創設、第二十代尾上政美これを港承、開口高明が第二十一代を継ぐ。
○特徴・・・当流は仮想敵に対してと、実際に相手がいて行う術とある。刀の取り扱い刀繰においては長いものは短く、短いものは長く、重いものは軽く、軽いものは重くの心持ちで刀操術により体の運用をはかる。刀刃を上に帯刀し、鯉口をみせずに必殺の鞘放れ抜き付け斬り下ろし納刀をする。奥居合になると鞘放れ納刀に迅速さが加わり、居合の生命である抜き付け斬り下ろしに活力がある。また、当流は座居合と立居合があり、座姿居合は正座と立膝姿がある。
当流儀道歌
 居合とは心に移つが居合なり
  人に逆ふを非力と知れ
 わがみち乃居合ひとすじ
    ざつだんに
  知らぬ兵法人にかたるな
*居合修身を座右の銘とする

大東流合気柔術は、清和天皇末裔新羅三郎源義光を始祖とし、甲斐武田家に伝承する。武田信玄他界、武田土佐国次は天正二年から会津大名、芦田盛氏に仕え、会津御他の地頭として子孫が定住。大東流を継承した徳川家康の孫、幼名幸松丸は信玄の旧臣高遠城主。保科政光の養子保科正之と改め後、会津藩祖となった。正之は兄家光の遺命で、四代将軍家網の補佐役として江戸城で大政輔弼の任にあること二十三年。その間、大東流を殿中護身武芸術御式内に改定した格式高い武芸であった。この御式内は正之以来、歴代会津藩主が継承し明治に至る。武田国次の末孫で、会津力士界の大関だった幕軍の力手組長武田惣吉の次男武田惣角は、家伝の大東流柔術と会津藩家老西郷頼母改め保科近真?より御式内(御敷居内)の秘奥を伝授され、全国を巡教。惣角は高弟の秋田県警察部長財部賓秀が北海道に栄転した際、要請されて随行し全道警察を巡教した。惣角他界後は長子武問時宗が本部長兼総務長に就任した。 平成五年十二月二日武田時宗は逝去、同六年九月十日当流の道統を守るため、全国支部長会議が招集され、武田時宗より唯一免許皆伝および宗家代理に指定されていた近藤勝之の、大東流合気柔術本部長兼総務長就任が満場一致で承認議決された。
○特徴・・・基本技は百拾八ヶ条あり、居捕、立合、半座半立、後捕に大別される。大東流の極意の一つである「合気」は、これらの技法に組み入れられている。「合気」は一瞬のうちに相手の攻撃を無力化し制する精妙な技法である。当流は秘傳目録・秘傳奥儀・秘奥儀・合気之術・合気二刀流秘傳・皆傳之事の六巻を骨子としている。

柳生心眼流甲冑兵法。 一六四〇年頃仙台藩の武士、竹永隼人が各流の武道を修し、奥儀を極めた後に、時の将軍家武道指南役、柳生但馬守宗矩に仕え修行して一流派を開き、柳生心眼流の名を許可されたと伝えられる。当流は伊達六十二万石仙台藩および江戸藩邸でも広く学ぶ者が多かった。一方、国許で学んだ者、帰国した者たちにも継承され、彼らは国境警備の役に当たった。当流は東北地方、特に仙台藩であった宮城県北、岩手県南に普及し、流祖といわれる竹永隼人が晩年、宮城県高須賀に閑居後も多くの門人を指導し、吉川市郎右衛門、中興の祖といわれた小山左門と続き、多数の門弟中より相澤東軒、さらには幕末に至り仙台藩養賢堂の武道教授となつた、名人星貞吉と継承した。その一家子孫の星彦十郎が相伝を継ぎ、星國雄は彦十郎の四男で一子相伝者であるこ國雄は当流のすべての心技を継承して後継者の育成に努め、平成十八年に逝去した。現在は孫の星裕文が囲雄を襲名し、門人とともに逼統を守っている。
○特徴・・・・柳生心眼流は攻撃ではない。相手の攻撃を待つ 八点足、いわゆる無念無想の護身術で、相手の攻撃により初めて一瞬の問に、相手の術技を利用しながら諸道具を活用して、自分を守るため足手腰体を変化させて戦う技法である。

琉球古武術は徒手空拳の空手と陰陽一体両輪の関係にあり、流球武術の要素と技法を奥探く秘
蔵し、八種の武器を使用し、各々特色技を包含している。現存する型の大部分は二百~数百年前後の父祖達人の足跡である。原始集落の時代を経て歴史に現れ始めたのは今から七百年ほど以前、琉球の南山、中山、北山の三山が割拠し、また統合された百余年の間の戦いに使用されたものであり、またそれら武器の使用法であったともいわれている。 時代の変遷を経過して古武術が衰微していることを憂慮した屋比久孟伝は、大正初期、琉球古武術研究会を興してその振興に努力した。その門の平(前里)信賢はなお残存し埋没している古武術の型を求め、その一枝一技の伝統を尋ねて、八種の武器を使用する四十余の型を集大成した。その最高直門として全型の皆伝を受けた故井上元勝は故師の遺命により長年月を費やし、根本体術を中枢とし編成した各武器の基本技各組手などの技術体系を確立した。型とともに保存振興し、現在に至る。
○徒手空拳とともに流球の武術を形成するものであり、八種の武器に各特色技がある。特に棒術は伝来の各型の中で白眉のものである。現在八種の武器を使用する四十余の型とその根本体術を中枢とし、編成した各武器の基本技、各種組手型の技術系を併せ保存する。

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筑後柳河立花藩御禁止楊心流薙刀術の流狙は秋山四郎兵衛で、九州の役の功績により、九州柳河藩二代目藩主となった立花宗茂公が、豊臣秀吉没後の関ケ原の役で大坂方に与して敗れ、奥州棚倉に蟄居した祈、警護の士として従い、元和六年(一六ニ0)、宗茂公が再び柳河藩主に戻った際、正式に柳河藩の御禁止流となり、域に仕える御殿女中らの護衛武術となった。流祖秋山四郎兵衛についての記録は残きれておらず、生没年は明らかではないが、口伝によれば剣聖塚原卜傳(一四九○~一五七一)とほぼ同時代頃で、卜伝の晩年期の誕生ともいわれている。 その継承は、一子相伝の流流が多くある中、実力によるものとし、薙刀を中心に継承されてきた。女性が宗家に選ばれた十二代鵜飼柳子の代に、九州柳河から広島県呉市に渡り、伝え継がれている。
○特徴・・・御殿女中がいつ、いかなる攻撃を受けても即座に対処した姿が現在も受け継がれており、振袖着物姿に襷掛けで自足袋を着用し、襷や鉢巻きは包帯に代用するため布を縁取りしないものを使用している。変幻由在華麗に七十余りの技を操り、「柳の如くたおやかにして肉を切らせて骨を砕く」の極意をもつで敵に対処する。

鞍馬流剣術は京八流、いわゆる鬼一法眼の流れを汲んだ流派といわれている。流狙の大野将監が何人について修業し、この刀法を編み出したかは、戦災により秘伝書焼失のため明言できないことは残念である。 鞍馬と名のつく流派は剣・槍・棒・抜刀などいくつかあったが、剣術では将監鞍馬流だけとなってしまった。天正年間に大野将監によって創始され、林崎甚助、加藤玄蕃その後の伝承は不明な所があるが、幕末から明治にかけて、十四代金子助三郎、直参旗本の十五代、柴田衛守がこの流派の中興の祖といわれている。柴円衛守は直参旗本出身で、八歳の時(安政三年)金子助三郎の門に入り、助三郎の子熊一郎に師事して修業、十人歳(慶応「一年) で免許皆伝を得ている。本心鏡智流槍術、小野派一刀流、柔術、捕縄術などを極め、警視庁武術世話係(後主席師範)を務めつつ門人を育て、明治十二年に、東京四ッ谷に習成館(勝海舟命名)道場を開き、その後大日本武徳会範士を授与されている。続いて、衝守の子勧(警視庁、貴衆両院の剣道師範) と受け笹がれたが、昭和二十年の戦災で道場は焼失し、鞍馬流の秘伝書の数々や、柴田家に伝わった古文書、武具などが全て灰となつてしまったことは、誠に惜しい極みである戦災で焼失した習成館道場は、勧の子鐵雄により平成元年に同地に再建され、近代的設備の道場となり、鞍馬流の形者古、研究がより盛んにに行われてきた。平成十六年に鐵雄は病没、現在は鐵雄の章雄が十八代宗家として、鞍馬流と道場を継承している。当流を修行した剣道家としては、故小澤丘範士9段、故岡田守弘範士8段の両先生がおられる。
○特徴・・・・鞍馬流の形は、蛤刃の太い木太刀を使って行 い、気迫に富んだ発声をもって演武するのが特徴 である。「正常剣」は現代剣道の正面打ちの手本のような形であり、「変化」は捲き落としの技で、 現代剣道にも通じるものがあり、当流の代表的な技である。「変化」は警視流木太刀の形(十流派からの抜粋) の二本目にも取り入れられている。返し技が多く、鏑の使い方に特徴があり、仕太刀の 「後の先」 の技を引き立てるように組まれている。
教訓歌
 「器用をも達者も得手もたのむまじ
   ただねり込みて功をつむべし」 (柴田衛守)
 「気は長く心は丸く腹立てず
       己小さく人は大きく一(柴田 勤)

糸洲流空手は、流球 (沖縄) で密かに伝承されてきた、門外不出の徒手空拳術である。 沖縄では一般に「首里手」「那覇手」「泊手」など土地の名を用いたり、また師の姓や行う者の姓を付けて、型の特色を表し、一種の流派のようにして口伝えに呼ばれてきた。 糸洲流空手道は 「首里手」 の遠祖である松村宗棍師に源を発し、近世の拳聖と世人に仰がれている糸洲安恒師を始祖としている。次いで高弟・の摩文仁賢和師が二世を継承し、自らも「糸東流」を創始した。 摩文仁師は、糸洲流を後世に伝承すべく坂上隆祥禅師に三世を継承させる。四世は子息節明が世襲し、現在当流の保存振興のため、横浜市に総本部を置き、後進の指導育成に努めている。
○特徴・・・・糸洲流は先人たちが苦難の末に作り上げた型を、できうるかぎり忠実に実践している。したがって、型を中心に錬磨し、その技法や応用動作を研究し、実際に役立つ技を組手に取り入れている。

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気楽流柔術は、「戸田流」「気楽流」「無敵流」の三流相伝となつているが、この三流を総称して気楽流と呼んでいる。戸田流は、戦国時代の末期、前田利家の家臣、戸田越後守を狙としている。戸田は冨円とも称し江州佐々家の支族で越前に移住し数代を経て朝倉家に仕え、さらに、前田家に仕えたのであった。伝書に、清浄絶釦?戸田越後守流とあり、この越後守流とは、戸田が富田とも称してあるように、名人越後すなわち富田越後守重政を流祖としたものである。戸(富)田流の絵伝書二巻(延享二年発行)が伝わっている(延宝七年の伝書が現存している)。 気楽流は、渡辺杢右衛門がこの戸(冨)田流や京流などを基として創始したもので、技法は、上意取、小具足、居詰、腰の廻、上意ぬけ身、極意無刀取である。飯塚臥竜斎が数多くの流儀を学び、その中の無敵流を加えて現在に伝わっている。伊勢崎藩では、斎藤武八郎を師範として迎え、藩士に学ばせたのであった。
○特徴・・・・臨機応変、有心無心、 戦国時代から続く総合武術であり、臨機の闘法が考案されている。
(道歌)
太刀影かそれかあらぬや夕暮の 雲洩れ来たる月
影の空
勝負とはたたざる先の勝負にて うつは打たざる
切るは切らざる

尾張貫流槍術・・貫流の始祖・津田権之丞信之は、明暦元年 (一六五五)、尾張藩馬廻役津田太郎左衛門知信の次子として生まれ、幼い頃から諸般の武術を学んだ。特に槍術を好み、「伊東流」を虎尾三安の門人・森勘兵衛に学ぶ。勘兵衛が尾張藩を退去後 払開那岳照準 掛率…藍塀鋭喫脂汝殿も、さらに佐分利円右衛門忠村(尾張佐分利流)を師とし、十六歳にしてその奥俸を得、以来朝鍛夕錬し、ある日、裕?然として「横手長短心理二貰」の極意を自得し、管に活機の妙のあることを知り、新しく一派を立て貫流(津田流・津田貫流)と称した。
 信之は、元禄五年(一六九二)、尾張藩槍奉行となり、三百石を賜った。尾張藩主徳川吉通は、殊の外熱心で、他藩に伝えることを禁じたことから「御止流」ともいわれた。
 この流儀は、槍・剣二芸は「車の両輪、鳥の汲翼の如し」、「槍法を知らずして刀術を語ることなかれ、刀法を知らずして槍術を語ることなかれ」と伝えられ、「とのもの太刀」として新陰流、神当流、円明流などの伝来の技も修練している。
○特徴・・・貫流の槍は三・六メートル (二間槍)。これに「管」を通して用いる。特徴は「管」を有効に遣い、敵の刹那の崩れを見逃さず、螺旋を描いて素早く繰り出し、繰り引くときのスピードと破壊力にある。流儀では、 「試合に始まり形に終わる」とされ、独自の工夫による防具を着用した地稽古を中心に行う。

長谷川流和術・・・ 長谷川流和術の流祖は、長谷川主税佐尉英信である。長谷川英信は江戸時代初期の人で松代藩に逗留、その後江戸に出て修練を重ね一流を創始。その流儀は松代藩はもとより関東及び西国にも伝播し隆盛を極めた武術である。二代、荒井兵作尉正継も松代より江戸に出て修行に励み、印可を授かる優れた武芸者であった。松代藩家老の鎌原桐山は、文化年間に随筆見聞集を編纂しこの中で、江戸に出て武名をあげた荒井兵作を次のように称賛した「又日熊谷兵作卜云者ヤワラヲ鍛錬シ而教エケル小分ナル者ノ上不仕合有而所ヲ立退江戸エ出師家ヲ立渡世トスル間二滴功積而今り荒井清智ナド名乗而・以下省略」松代藩士の桑原源七は宝永三年、小山半左衛門尉幸次より長各川流和術の免許皆伝を授かり以降、家伝兵法として指南し相伝して きた。 八代、桑原三郎重教は明和三年、大矢摘五兵衛重堅より無筆直伝流の免許皆伝も授かった。このように、技と武人の誠心を連綿と伝えてきた。 
○特徴・・・・当流は、「和」の字を用いているのには、それ相応の理念がある。カに対抗するのではなく、和らかく相手の力を有利に働かせ勝利を得る。戦いで腕を折られたり関節を外され戦意を失なった者に止めを刺す必要はない。悲惨な戦乱の時代を生き抜いた流祖は、戦いを好まず平和に治める事を理念とし、生かして捕らえる事を最良とした。(注・・大会カタログより転載一部文字は当て字)

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