Archive for 1月, 2012


大雪の試斬会

大雪の中の試斬会となりました、また道場内では寒さにもめげず活気に満ちた試斬でした。みなさんも私もそれぞれ不得意な部分の練習をされていまして、私も脇差しを帯びての逆袈裟切りが旨く出来ず往生した次第です。居合の練習にもも脇差しを帯びて稽古をする必要性を感じた稽古でありました。帰りは車が雪に覆われていてさあ大変、、滑るわ・・良く見えないわ・・混んでいるわで!でも川越から北方面はさほどでなく、、川越の南方面が大変だったようでした

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100歳万歳!

母親が100歳にこの1月になりました、今元気にしております・・すっかりボケテしまってはいますが、野田佳彦内閣総理大臣からの表彰状をもって町役場の方が金一封と共に持参してくださいました、ありがとうございます。思えば母親は激動の昭和史を生き抜いた生き証人です。まだ、私が高校生のころ当時の出来事をいろいろ話してくれましたがまだ、バイクにハマッテいたガキにとっては馬の耳に念仏でいまに思えばもっと詳しく聞いておけば良かったと大いに反省しておりますがあとの祭り・・反省は猿にもできるわけでなさけない限りであります。さて、今までの記憶を記載してみます。
明治45年(大正元年)の生まれ、16歳?のころ巣鴨で関東大震災を経験したと言っていました。その時馬鹿な我が輩は揺れた?お前のお婆ちゃんと巣鴨に住んでいて・・揺れたよ!で終わってしまい今に思えばホントに馬鹿でした。板橋で自動車修理工の(信州より集団就職で6男の六男)父親と結婚して満州へ開拓団として行ったことを聞きました。満州では相当苦労したとのことで、半年も外出の父親が女をつれて帰ってきたのでその女を追い出したとか、、。私の上に姉が2人いましたが栄養失調で2人失い1人は南京の駅のそばの空き地に自分で穴を掘って埋めた話を、、あーそう?なんて聞いていた馬鹿な我が輩がいた次第です。その父親は軍属で自動車修理をしていて、、モーゼルを腰に帯びて自由放題に生きていたようです。ロシア軍が条約を破り満州へ進行関東軍と戦闘状態にいたると軍属の父も招集されましたが、ほど無く、、降伏。父親の居ない母親は長男の手を引き帰国?逃走?すべく移動をしました。とても元気な長男は中国人に良く目を付けられ??。よこせ、置いて行け、、と言われたそうですが気丈な明治生まれの母は手をはなしませんでした。運良く引き上げてきた父親と南京の駅でばったりあったそうで、その後ロシア軍につかまりましたが腕の良い自動車修理工はロシア軍に重宝がられシベリアに送られることなく、特別な身分保障証を発行してもらい、、オヤジはロシア軍による日本人狩りにもその身分保障証で俺の部下だと言って何人かの日本人を助けたそうです。また、母親によると毎日機関銃をもった兵隊が車で迎えにきたそうです。いつか司令官に呼ばれ、、お前は日本に帰って良いといわれたそうですが、帰国も大変だったようで、帰国の船中は自決用に塩酸の瓶を携帯していたそうで、、万が一拿捕されるようなことがあれば自決の覚悟だったと聞かせてくれました、またして我が輩は、、へー!!痛そう。舞鶴から帰国後、、父の実家の長男の勇一朗伯父さんが廻りの反対を押し切って暖かく迎えてくれてホントに感謝していると言っていました。その勇一朗伯父さんは村一番の漁師でいまも私の部屋には伯父さんが捕った白テンの剥製があます。私が幼稚園から小学生低学年のこと帰省する浅山が実家からでっかく見えていたのが思い出になっています。その伯父さんは古武士的な気性の方で、真田その者であったように覚えています。
その後東京世田谷・板橋は舟渡で自動車修理工で復活、、腕の良い職人の父は真面目に働き、気丈な母親は次男・三男の私達を生み、、元気に働き、、父以上に家計を助け3人男兄弟育てました。職人気質は次男に、、その他は男3人に遺伝したようです。そんな母親が100歳の祝いを総理大臣から受けうれしく思い次第であります。

あの時皆さんはどうされていましたか?阪神淡路震災から17年ですか、今日は防災とボランティアの日です。私は当時本社勤務でした、あの直後会社を挙げて、、本社勤務者が中心となって関連会社の応援にいくことになり募集がありましたが当時私は物件をかかえておりどうしたもんか待機状態でした。いけとなれば、、そく出動可能でした。なぜなら当時は登山に凝っていまして、、1週間置きに100名山をのぼっていましたので、、登山リュック等常に用意していました。結局おまえが一番適任と言われつつ行くことはできなかった次第で、、あまり慣れない課長が行き、、後日相当ショックをうけて職場復帰してきました。なによりのショックは、、ご遺体が、、何もなされづ、、道路に並べられていたことがショックだったようです。行きたくても行けないことはあるのです。その後、、重油流失時も休暇がもらえず、中越の震災では職場環境が良く、、月2回~のペースで活動が出来通算30日の活動になりました。東日本震災ではいまの所2回の現地入りの状態です。少し寂しい経過にいたっています。
では、、

江戸期の古鞘を割ってみた、中がどうなっているか知りたかったからですが。割って解ったことは鞘のあわせはセンターではなく刃筋からずれていることが解った、抜き差しする時に刃が当たって鞘剥がれを防ぐ為とわかった。また切っ先の部分は多分やや長めに、、又、、帽子の部分はやや袋状に広がっている様に見える、これは鞘の削りカスが切っ先部分に詰まって鯉口が合わなくなるのを防ぐ為と思われる。そして鞘の強度を保つ為に和紙を巻いてから漆塗りをして鞘の強度を確保していることが解った。

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午前中の稽古終了後、道場の友と新春恒例の靖国神社への参拝と新春刀剣展を見てきました。正月も1月8日でかなり空いているかと思ったがそんなことはないようです。沢山の方が来られていました。さて、楽しみのゼロ戦と今度は蒸気機関車が展示してありました。何でも戦時中タイを走っていたとか・・。お目当ての刀匠会関東支部の上手刀工の作の刀を刀を見ました。今回展示の刀は鑑賞用の刀ではありますが従来の大型の見るだけの刀(大身で絶対に振れない大きさ)ではなく、居合の稽古にも使えそうな刀が多く展示してありました。それでも刀身重量1キロ近くはありそうですが・・。何時もの通り刀匠会の刀匠(小澤刀匠・下島刀匠等・・)が小物刃物・小道具・鑑賞用玉鋼・我が名及び梵字等を板に彫り込んでもらえるコーナー(キーホルダーに良い)、各種解説本などが販売されていました。刀匠に色々な事を聞ける機会ですからサムライ諸君は是非とも行ってもらいたいものです。

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新春刀の鞘掃除、、刀の鯉口が甘くなっては居ませんか?緩いのは、すり減ったものですがこの場合、朴の木の削り片を薄くスライスしたのを鯉口の刃の方面と棟の方面のハバキと鞘部分に当たる部分にボンドで調整後貼り付けて鯉口の緩みを補修します。また、締まりきらないて手前で止まってしまうのは鞘の切っ先に削れた朴の木のカスが貯まっている事が原因の場合があります。この時に清掃する道具、、と言っててもだたの針金を曲げただけのものですが、これで新春鞘清掃をいたしました。まあ、結構出てきました。

2012年の始めにあたって、、「サムライですので馬にも乗ります、鉄の馬・・バイクですけど!」・・・と話の中で言うことが時たまあります。古のサムライの気持ちになりたくて、近づきたくて武道を鑑定を学んでいるわけです、武道関係の解説書等も読むし、昇段試験の時のレポート回答の時も勉強しているわけですがどうも武道家同士、特に指導をされている上層部の方、機関誌等をみていても、言葉だけになっている傾向が見受けられいつも残念に思っている次第です。
いざ鎌倉」の時は甲冑に刀を帯び愛馬にまたがり駆けつけるのが武士の嗜みです。古来サムライの本質としての生き方は太く短く生きるのが良しとされてきました、それでも、何処で果てるかわからない寂しさから最も身近にある刀を信仰の対象として刀身彫りをしたりして神社に奉納してきたわけです。それらの刀が今に伝わりその刀から平成のサムライは当時のサムライの生き様を学ぶことができるわけです。
では平成のサムライの生き様は?、もちろん戦争などは無いわけですが、我が国の2000年の歴史は数々の自然災害に見舞われ、、沢山の人が死に古の人々は負けずにこの国を現代へつなげてきたのです。2011・3・11の出来事は、自衛隊指揮官の言葉を借りればテレビ映像から・・・「これは戦だ」との判断から上層部からの命令を待たずに出動したとのことでした。2012年の初頭に当たって刀をスコップに持ち替えて東北に行かなかった武道を学ぶもの、、特に指導者で東北に行かなかった者は、言葉だけの指導者でサムライでなく・・・ただの武道家に過ぎないのです。また災害が来ます!